zunra’s diary

すぐ変わる街の風景を残す為のブログだったけど、コロナでどこも行けないので思う事を綴ってます

4号棟と3号棟と爆竹ばばあ

4号棟と3号棟はそれぞれ大きな建物だけど廊下が繋がっていたので更に大きく見えた。

この二つの棟にも一坪菜園が付いていて、住民はお花を育てたり、野菜や果物を育てたりしていた。

4号棟か3号棟かは不明だが、「爆竹はばあ」と子供たちに呼ばれるお婆さんが住んでいた。

お婆さんは長くて少し縮れた白髪で、道をゆっくりちょこちょこと小刻みに震えながら歩き、両手はそれぞれの耳を押さえていると言うか、耳たぶを摘んでいた。

何故、「爆竹ばばあ」というあだ名で呼ばれていたのかと言うと、噂では、戦争の時に爆発音を聞いて、それから耳に手をやるようになったと言っている子がいた。本当かは甚だ怪しいけれど、本人に確認する事は、何だか怖くて出来なかった。

追いかけられたとか、何かされたとか、怒られたとかは一切なかった。優しくもされなかった。ただ、歩く姿を見ると怖いと感じていた。

ある日の夕方、お婆さんが4号棟の2階の階段の所から、グラウンドを眺めていたとき、子供が「爆竹ババア!」と叫んで石を投げるのを目撃した事があった。2人か3人だったと思う。自分は止める事もせず眺めていた。夕陽のシルエットで目に焼き付いている。

お婆さんは奥へとゆっくり隠れて、子供もすぐに何処かへ行ってしまった。

お婆さんは月に一度見るか見ないかの、とてもレアな存在だった。

見た事ない子は存在を信じないような、言わば都市伝説的な存在だった。

3号棟か4号棟か、どちらに住んでいたのか、家族はいたのか、近所に知人や友人がいたのか、全く分からない。

30年以上前、まだ自分は低学年だった。お婆さんは当時、70代ぐらいに見えた。今でも自分の記憶の中で生きている。

 

Googleストリートビューで、また都営住宅の周りを見ていたら、3号棟と4号棟がフェンスで目隠しされていた。多分、取り壊されているのだと思う。正確には5号棟の家庭菜園のあった所までフェンスで囲われている。自分は当時5号棟に住んでいたので5号棟の家庭菜園は虫採りの良いスポットだった。

家庭菜園で取れたビワや葡萄を育てて分けてくれたご近所さんがいた。プチトマトをくれたおばさんに、自分はトマトが嫌いである事を言えずに頑張ってチビチビ食べたりした。

ビワの木や葡萄の木はどうなったのだろうか。

2年前に都営住宅の周りを歩いた時、3号棟と4号棟はもう人気が無くて、がらんとしていた。あの時すでに、取り壊しの準備は始まってたのだと思う。建物の壁のひびは外からでも見て確認出来た。自分が住んでいた5号棟も、隣の6号棟も4号棟と同じ作りで、多分、築年数も同じだから、この先どうなるのか不安がよぎる。5号棟と6号棟に関してはまだ人が住んでいたので、少しでも長くその姿を維持して頂きたいと思う。

歴史には何一つこれっぽっちも残らないところで、自分の思い出が少しずつくずされるようで、辛いものがある。

あとは、時折り記憶の中に出てくる、爆竹ばばあと呼ばれたお婆さんの事が気になった。挨拶ぐらいしていたら何かが変わったかも知れない。

 

コメント返答欄

Tomtomさん

いつもありがとうございます。

4号棟と3号棟が無くなったのを見て、あのお婆さんの事を思い出し、自分の頭にある記憶だけでも残しておきたいなと思い書きました。

小6で引越したので、引越し先で爆竹はばあと言うお婆さんがいたと友達に話してもつまらない嘘だと一蹴されました。

「もっと怖くないとダメだよ。」

って言われて、こうやって都市伝説とか怖い話が生まれるんだなぁと子供心に思いました。

あと、ぜんぜん関係ないけど、ジャンプが羽田空港で土曜に売られる事も信じてもらえなかったなぁ。

 

爆竹はばあ、ご存知でしたか!確かに存在したんだと証明してくれる方がいて嬉しいです。ありがとうございます!