大鳥居駅へは東糀谷から歩いていくことは出来ないと思っていたが 、意外にも近かった。 自転車をこいで牛乳を買いに行った大鳥居の牛乳屋さんは見当たら なかった。 3つ上の兄が牛乳屋の倅の同級生か友人かでそこで買うことが義務 付けられていた。
大鳥居のスーパーもなくなっていた。母親がいつも100円分だけお菓子を買ってくれて、 母親が商品を選ぶ間、自分もお菓子を一生懸命選んだ。
あるはずの通りも記憶と違っていて、 ランドマークを失ってどこにいるか分からず、 いい歳して迷子になりそうだった。
多分、化粧品店があった辺りにスーパーがあったと思うけど、 記憶が定かではない。この辺に、この辺に、と記憶を辿りうろつくけど、スーパーはやはり無かった。
ウロウロして、ようやく見つけたのが銭湯だった。宝湯。
子供の日にタダになると聞いて兄に連れられて生まれて初めて銭湯 に行った。兄の友達数人も待ち合わせて一緒に行った。5〜6人だったと思う。ただ、その日は雨がパラパラと降ってきて、兄の友達のうちの1人が「放射能が怖いから帰る。」と言い出した。そして、2人帰った。大丈夫だ、心配し過ぎだと説得はしたけれと帰って行った。放射能とはチェルノブイリ原発の事故があった直後に、原発から大量に漏れた放射能のことで、テレビのニュースで頻繁に報道されていた。そして、日本にも風に乗って放射能が届くという報道がされて他人事では無くなった。本当に放射能が届いていたか、過剰な学者の説が広まってしまっただけかはわからないが子供は雨が降ると「放射能が降ってくる!」と怖がったりはしゃいだりした。
銭湯はまだあってくれた。 自分の訪れた時間は営業時間外で入れなかったけど、 まだ営業しているようで良かった。
近所に住んでいたら子供を連れて行きたい。最近、 銭湯に子供とよく行く。この時からの刷り込みかもしれない。
まあ、当時は近所にお風呂のないアパートも多かったと思う。 そういうアパートに住んでいる友達も少ないながらもいたから、 今も存在していてくれたのかも知れない。
産業道路沿いに吉野家があってそこの牛丼を初めて食べた。 僕が母親の財布からお金を盗んで、それを怒った母親が家事をボイコットした。確か、2週間ぐらいだと思う。父親が肉が嫌いであまり牛丼を食べる機会が無かったけど、 食事も作ってもらえなかったので、その時、牛丼を仕事の帰りに買って来てくれた。腹も空いていて凄く美味しかった。
ただ、 吉野家は中華料理のお店に変わっていた。 少し残念ではあったけれど、 他のお店でも吉野家の牛丼は食べられるので平静でいられた。
「いらっしゃい、いらっしゃい、どーぞいらっしゃい!」とパン屋さんが店先で行き交う人達に声を掛ける姿はもう見られなかった。お店自体も見つからなかった。お店のおばちゃんは元気だろうか。
産業道路と環八が交差する辺りが大鳥居駅で、 穴守稲荷方面に行くとファミレスのすかいらーくがあった。 ガズトでもバーミヤンでも夢庵でもなく、 すかいらーくグループのすかいらーくがあった。 特別な日に食べに行った。ドリアという料理を初めて食べた。 それからいつもドリアを頼むようになった。
すかいらーくはなくなっていた。ファミレスもない。多分、 東横インというホテルが2棟立っているけど、 その辺りがすかいらーくだったのかなと思う。 特別なお店だったから、 ガズトやバーミヤンとして残ってほしかった。
大鳥居駅は、駅自体がなくなっていた。 産業道路を遮断する大きな踏切もなくなっていた。
駅、どこだ。どこだ。と思ったら、 大鳥居の商店街から産業道路を渡ったあたりに大鳥居駅とかいた看 板が見えた。
看板の下に駅があり、地下化していることが分かった。 実は30年前から地下化するという話は出ていた。 オオカミ少年のようにいつまでたっても地下にならないのであまり 本気にしている人はいなかったと思う。
なので、地下になったことをこの目で見ると、 ついにやったのかと達成感があった。広くて渋滞してない道路は迫力がある。
他の人にはどうでも良いかも知れないが、この風景は念願の叶って得たものだと思うと写真をいっぱい撮ってしまった。