zunra’s diary

すぐ変わる街の風景を残す為のブログだったけど、コロナでどこも行けないので思う事を綴ってます

糀谷 青い鳥からダイエー(マルエツ)へ

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駅前にある「青い鳥」は創業何年なのだろうか。まだあってくれて良かった。内装は大分変わっていた。30年前は3階がエアガンやファミコンのカセットを売るコーナーで100円でカセットを選んで30分ファミコンを使えるという画期的なシステムで子供を集めていた。

そこで初めてドラクエをやった。30分やって楽しめる種類のゲームではなかったが、コマンドを入力して敵を倒すという戦闘方法を初めて体験した。

 

ファミコンを欲しいと思ったがとても買えないので、100円でソフトを選んで遊べるのはありがたかった。

当時のお小遣いは毎週土曜日に100円だった。小学校の低学年はそのお金でキン消しを買って、高学年になってくると駄菓子やゲームに使っていた。お金は貰ったその日に使い切り、すぐに足りなくなっていた。

 

今の青い鳥は3Fは使われていなかった。2Fまででゲームやエアガンは置いておらず、幼児のおもちゃとハンカチやティッシュ、文房具などの雑貨と、駄菓子があった。

平日の昼間なのでお客は自分だけだった。

それにしてもだ。店がそこにあるだけでも凄い事だ。

自分を待っててくれたと思った訳では無いけど、存在することがなんだかありがたいと思った。興奮して思い出もぐるぐる頭の中を走り回った。

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糀谷駅自体が高架化していて駅を出るとどこにいるのかも分からなかった。高架化した駅を見上げると、もう地上を走っていた頃の記憶も急におぼろげになってしまった。少しウロウロして青い鳥とミスタードーナツを見つけたと時は正直ハッとした。急に道が拓けた。これでダイエー迄は行けるしバス通りも分かると思った。

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ミスドと青い鳥の間の道を、真っ直ぐ歩けばダイエーだ。そう思って糀谷南商店街を歩いた。30年前も通った道だけど道の両側に記憶に残っている店は残念ながら無かった。でも、人通りも多くて嬉しくなった。

そして、ダイエーのある十字路に来た。

そこには大きなマンションがあって、ダイエーはもう無かった。

 

当時は広い駐車場か駐輪場があって、ペットショップが併設されていて小さなサンショウウオを買った。ダイエーの建物は4Fぐらいまであって、最上階にデパートの屋上ならではの遊園地みたいなものがあった。ゲームセンターもあった。そこでよく遊んだ。

 

小学校の3年から5年の間は自転車に乗って友達と遊ぶようになり、行動範囲が広がった。東糀谷から糀谷近辺は自転車で行くには丁度いい距離だった。ゲームが流行りだしエアガンに憧れシール欲しさにビックリマンチョコを捨てる、色々社会問題も発生していた。

ただ、行動範囲が広がると欲望も多くて、満たすにはお金がかかった。

親の財布からお金を盗るようになり、盗ることから抜け出せず、小銭から1000円札、5000円、そしてとうとう1万円、エスカレートしていった。バレた時はめちゃくちゃ怒られ、母親はご飯を作ってくれなくなって、父親が大鳥居の牛丼を毎日買って来てくれて怒りが鎮まるのを待った。

 

行動範囲が広がっていくにつれ、交友関係が広がり上級生も知り合い、そいつらにお金を盗られ、なんだか社会の縮図、搾取と主従関係みたいだった。全て自業自得で色々学べて、6年生になるタイミングで引っ越して足を洗う形になり、一生分の運を使い果たしたぐらいラッキーだと思う。

 

でも、そんな思い出でも、ガッカリした。自分にとっては糀谷に行くのはいつも刺激がいっぱいのダイエーが目的だったから、ショックだった。無いのはわかってもウロウロ探してしまった。何かの間違いではないかと思い探して、ダイエーは、あの建物はどんな色でどんな形か、またおぼろげになってしまった。本当にあったのかも自信がない。

 

↓萩中住宅という団地だったマンション

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30年前、平成が始まった直後に大田区を去ったのだけれど、取り返せない思いがした。

パンドラの匣を開けた。

大事な友達の死を知った。

記憶を辿る命綱が切れた。

閉店する百貨店の最後の日に入り口に人だかりが出来るのはそういう事なのかと分かった。

 

引っ越した事は罪深い事だと知った。その土地を離れるという事は部外者となること。その土地の歴史の生き証人にならないのだ。その土地を語る権利が無くなったと気付いた。

引っ越しが決まった時、上級生から逃げられる、自分は助かると思った。しかし、そうでは無い。逃げたい現実も含め土地の人間と関わり続け、その土地に触れ続けなければ変わったもの、新しく出来たもの、そして、無くなったもの、つまり歴史を知る事は出来ない。

30年も後からのこのこ訪れて、変わっただの、無くなっただの、もう戻らない過去と辿れない記憶に狼狽える自分は情け無くてちっぽけに感じた。

 

父親も母親も若くて、自分は幼くて、青い鳥で長い時間吟味してオモチャを買ってもらって、兄とプラモを組み立てて、そんな過去にはもう戻れないんだよな。と、どんな過去でも不思議と戻りたいものだと感じている。

 

コメント返答欄

萩中の民さん

コメントありがとうございます。

表現に不快感を感じる方もいらっしゃると判断しまして、公開は差し控えますが、貴重なご意見ありがとうございます。

マルエツだったんですね。皆んなダイエーと言ってました。30年経って気付けて良かったです。うちの親にも教えてあげようと思います。

3階建だった事も驚きです。小学生の頃に見たダイエーマルエツ)は巨大で刺激的だったので凄く大きな建物として記憶に残ってました。3階しか無かったのか。今見る事が出来たら小さかったんだなと思えたのかも知れません。

ゲームコーナーから外に出られたのは覚えていたけど、そこにどんな遊具があったか本当にあったのかも薄らといった感じでした。

そのマルエツの道を挟んで斜め向かいにちょっと大きなパン屋さんがあったような気がするけど、別の場所と間違えている気もします。

正直道に迷いまくって、青い鳥を目印に何とか辿り着いた感じで、本当に答え合わせをしながら歩いたので、コメントは本当に貴重でありがたいです!

 

銀河さん

コメントありがとうございます。

ただ、自分はもう30年以上前に東糀谷を出てしまって、その後、転々として、今は千葉の松戸という所で生活してます。

このブログを書いたのも3年前で、あれからはもう糀谷には行けてなくて、また、いつか行きたいなと思ってます。

その時には青い鳥がどうなったか、自分の目で見て確かめてブログに書きたいです。

いつになるかはお約束できませんし、明日何が起こるかわからない世の中なので、もう行けないかもしれません。また行けたらいいなぁ。もし、あの土地に行けたら、これが最後になるかもという覚悟で目に焼き付けようと思います。