zunra’s diary

すぐ変わる街の風景を残す為のブログだったけど、コロナでどこも行けないので思う事を綴ってます

現代落語論 談志師匠

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立川談志が初めて書いた本がこの「現代落語論」だけど、やっと手に入れることが出来た。

結構大き目の本屋とか古本屋とかでも探したけどこの本にはなかなか巡り合えていなかった。

色んな人がいる。

「この本、置いてない本屋はダメ」

とか

「談志の落語を3席聞いて、それから読むと談志師匠が話しかけてくれてるみたいに読めるよ」

などと言う人もいた。

 

現代と題打ってはいるが、初版は1965年12月6日、談志師匠が29歳の時に出版された本だ。55年前、古い本と言っていいだろう。

失礼だけど、29歳だから若い人が書いた本、と言っても間違いではないだろう。

 

話し方は俺の知ってる談志師匠とちっとも変わらない。口語体で書かれた文章で、談志師匠を知ってから読むと、まぁ話しかけてくる本だ。

 

映像が頭に残る本、と言った感じで、多分、この若者は狙って話し言葉で書いてる。読んでる人に話しかけてる。落語とは何かを語りかけてくれている優しさ溢れる本だ。

 

大学生ぐらいの時に俺は落語をちょっと聞くようになって、もう40だから20年近く経つけど、30前後の時に読んでおけば良かった。と口惜しい気持ちは湧いてきた。

 

談志師匠の落語、一回生で聞いておけば良かった。

 

この本が出た時、談志師匠は真打になってから2年。書いてる時は、きっとなったばかりだ。

「俺は真打だ!と一人で言ってみるときがある。」

という一文がまぶしくい。こんな生き方あるんだな、凄いな、とあこがれと焦りを感じた。

 

俺は志ん朝師匠の富久での「いらねえやいそんなもん」にびびって、落語を聴くようになった。談志師匠はこの人の落語を見る価値のある落語とテレビのインタビューで言っていた。真打昇進は追い抜かれたから快くは思ってないとは聞いていたけど、その辺りもちゃんと書いてあった。志ん朝師匠、キンショウバイっていう高級ふりかけのCMの人で、この人は結構若くしてガンで亡くなってしまった。

 

談志師匠の芝浜、泣かずに聞き切る自信は未だに無い。でも、それもほんの一部だと気付けた。この本を読まなかったら知ったかぶりで大恥だった。

 

こういうことをしなくちゃいけない。語り継いで歴史のバトンを次に繋げないといけない。今、ブログで町並みとかを残しているけど、こういうことをもっとやらなきゃダメだ。

 

やっと出逢えて良かった。

 

後日、談志師匠の噺の枕で

「新宿末広亭の便所に、談志は野ざらしばかり、と落書きされてやがる」

と、何度か聞いたので、末広亭に行って落語を聞きに行って、便所もみた。落書きをキョロキョロ探してしまった。まあ、綺麗な便所で落書きは一つも無かった。

 

誰か書いといてくれないかな。

と思いつつ、16で初高座に上がった舞台を見て満足した。