zunra’s diary

すぐ変わる街の風景を残す為のブログだったけど、コロナでどこも行けないので思う事を綴ってます

パラリンピックと子供の指

子供が産まれた時、自分は子供の指を数えた。5本、ちゃんとある事を確認してホッとした。無意識だった。その事は家族にも言ってない。障害者を差別する事なく、偏見も無く生きているつもりでいたが、化けの皮が剥がれたと言うか、子供が五体満足という状態に執着してる自分に気付いた。

自分は差別や偏見無く生きているフリをしているのだと思う。車椅子の人、目の見えない人、手足が無い人など、パラリンピックで戦っている人に対して、かっこいいと思うと同時に、心の片隅で可哀想と思ってしまっている。自分や子供が障害を負うのは嫌だと思ってしまっている。

パラリンピアンは障害を負っても自分の輝ける場所を見つけて戦っている。大きな障害を負って、自分はあんなに戦えるだろうか。

自信がない。自殺する可能性も多いにある。

障害者を決して見下してはならないし、そんな事はしたくはないけれど、パラリンピアンは障害を負った時の希望だと思う。なんて言うか、偉人に見えて、ああいう偉人がいなかったら自分の様な人間は生きられない程弱い。

閉幕してしまったパラリンピックで色んな事が頭によぎった。

ありがとうパラリンピック

小田急線の事件

6日の夜、テレビはオリンピックの特集とコロナ感染者が過去最多である事を伝えつつ、緊急ニュースで小田急線で起きた無差別殺傷事件について放送していた。

36歳の容疑者は勝ち組に見えたと言う理由で、電車でたまたま近くにいた女子大生を殺意を持って何回も刺した。そして、次々と乗客を刺した。

事件の背景にある色々な動機が明るみになって来ている。

・仕事が上手くいかなかった。

・有名大学を中退した。

・女性に見下された事がある。

・一人暮らしで生活保護を受けていた。

・万引きで捕まり店員を殺害しようと思った。

社会へのうらみが募り、今回の事件を起こした。

自分からすれば36歳の独身な男は、未来ある若者に他ならない。こう言う事件が起こると、自分が不幸だと思い込む人が世の中に増えたのだと感じる。これから何だって出来るのに、こんな形で顔と名前を世間に知られるのは本当にもったいない。

自分も仕事を転々としているし、これが天職と思える仕事に出会えていない。だが、家庭を持ち子供もいるので、子供の寝顔を見ると、もう正直どうする事も出来ない。今の仕事から逃げることも、あるいは家族から逃げることも出来ない。一見幸せそうに見えるけど、40代半ばで詰んでるなと周りの同年代の同僚と笑うしかない。生きるって辛いなぁと思わない日はない。

そんな人間からしたら、36歳の独身の人達は何にでもなれるスーパーマンの様な存在だ。

手短な所で言えば、何処でも行けるし住めるし逃げることも出来る。趣味をYouTubeで流して友達に見てもらったり、読んだ本、見た映画、食べた美味しい物の情報をブログやTwitterFacebookで書いたり、思いや活動を伝えることはいくらでも出来る。特に思うのはSNSは反応も早く誹謗中傷ばかりではなくいいねやリツイートといった形で賛同や共感も分かち合える。やれる事はいっぱいある。

自分はお金も時間も無くなってしまった。育児の為何処かに一人でふらっと行くことは出来ない。在宅勤務になり楽になるかと思っていたが、家事と育児と仕事で地獄状態だ。自分の時間はほぼ皆無でトイレ休憩ぐらいだ。

そう言えば、昔、父親が出勤前にトイレで独り言をブツブツ言っていて、気味が悪いなと思ってだけど、最近、自分がトイレで独り言を言っているのに気付いた。歴史は繰り返されていると思い知った。

36歳やもっと若い人がこんな自暴自棄を起こすなんて勿体なくて、何だか近くに自分がいてあげられたらなと思ってしまう。

自分を見て笑いながら

「コイツに比べたら、マシだ。俺は自由に生きられている。」

と思って欲しい。ちょっと情け無いけど、羨ましいほど未来ある若者が、自暴自棄を起こすよりよっぽどいい。そうすれば、被害に遭われる罪なき人達もいなくなる。

 

36歳の独身男なんて、これから何にでもなれるよ!

同じ様な事件が連鎖しません様に祈るばかり。

2021オリンピック閉会式

開会式と比べてしまうと、最初の色々な人が出てきて思い思いに動くシーンは、ちょっと自分にはよくわからないパフォーマンスだったかなと思う。東京ってあんなかな?と思った。

で、スカパラやDJ松永さんが登場してぐっと盛り上がり、かっこよかった。

東京音頭はコロナのせいで今年は聴けないかなと思っていたので、この場で聴けて何だか嬉しくなった。特に海外の選手が踊っている姿を見て、国境を超えて体が勝手に踊りたくなるリズムなのかなとニンマリしてしまった。

パリからの生中継の映像は凄くワクワク感があった。戦闘機の煙が描くトリコロールや、ガラス張りのオルセー美術館の天井をBMXで走り、建物の中でフェンシングをしている姿はワクワクというより驚いた。フランス人はかっこいいなぁ、常識を覆すなぁ、とただただ感心した。ベルサイユ宮殿の馬術競技も「どうだい!」とマクロン大統領にエレガントにドヤ顔で言われそうでかっこいい。とにかく、早く観たい。

閉会式の終盤の大竹しのぶさんと子供達の聖火の納火は、何だか寂しくて、子供の頃の夏休みの終わりの感覚がした。母親の実家の山口県で、虫採りをして川で遊んで、美味しいものを食べて、また東京の家に帰る日の寂しさを思い出した。ずっとここにいたいなと思った。もう十何年も山口には行ってないのに。

 

解任されてしまった小林賢太郎さんを思うとやるせないけれど、どこかに少しでも小林賢太郎さんのアイデアが受け継がれていてくれれば嬉しい。隠しコマンドのように、小林賢太郎さんへのメッセージを誰かがこっそり入れてくれていたら粋だなと思う。キャンセルカルチャーに巻き込まれて、解任を余儀無くされてしまった小林賢太郎さんをそのままにして本当によいか。もやもやが残り、話題にならなくなっていくのが怖くて悲しい。

まだ終わらせたくない。

2021オリンピック 開会式

家事をしていて、20時半過ぎ、ようやくテレビを着けて開会式を見ることが出来た。

オーケストラがチューニングを合わせている映像が流れていた。

様々な競技の選手がスタートに着く映像とチューニングで一音ずつ確認する演奏者の映像が交互に流れて、緊張感が伝わり直ぐに引き込まれた。

チューニングを合わせる映像の中で、ドラクエのオープニングっぽいメロディーが一瞬流れて、直ぐに消えた。たまたまだな、と思い何も言わずに見続けると、各国選手団の入場の映像に切り替わった。

ギリシャ選手団が入ってくると同時に、ドラゴンクエストのオープニングテーマが流れた。総毛立った。団塊ジュニア世代皆んなの心に響くあのメロディーは各国選手団を勇者に見せた。

凄い事が起こるぞ。そう思わずにはいられなかった。

ちょっと前まで、やれるのかどうかもわからなかったオリンピックで、開会式も潰そうとする嫌な力がモヤっと取り巻いていた。自分もやらない方が良いと思ってさえいた。

自分でも単純だなと思うけど、入場の最初の瞬間から会心の一撃を食らってしまった。見られて良かった。

ファミコンは買ってもらえなくて、ゲームは糀谷の青い鳥でやっていて、ドラクエも30分100円でやった時の記憶が蘇った。誰かの冒険の書を消した音楽も、ちょっと思い出してニヤニヤしてしまった。

曲が変わりモンスターハンターの曲もCMで聞き覚えがあった。いいぞ!このメンバーで狩りに行ったら負ける気がしないなと思いながら見ていた。

22時ぐらいまで観て、子供達を寝かしつけ、自分も寝てしまった。

開会式は終わってしまって、森山未來MISIAなだぎ武劇団ひとり、色々見所を逃した事に気付いて残念ではある。

酷評する人もまたいたけれど、凄くいい場合に出会えて良かった。

小林賢太郎さん

初めてラーメンズを観た時は衝撃だった。

高校2年の時に松本人志の遺書を読み、お笑いの難しさを知り、どっぷりお笑いに浸かっていた。深夜番組やラジオばかりでいわゆるゴールデンの時間帯から離れていった。新しいお笑いってなんだろうと素人のくせに勝手に考えていた。

浪人してから大学生になって、NHK爆笑オンエアバトルで初めて、ラーメンズを観てしまった。この番組は最初に出場者の点数が発表される。観たことも聞いたこともないラーメンズと言うコンビが出場者の中でダントツ一位の凄い点数を出していた。会場がどよめいていた。

その時点で、テレビの向こう側の自分はこれは事件だとワクワクしていた。凄い事が起こると思い、現に起きた。

腹を抱えて笑ったか、どんなネタか、何だか凄過ぎて良く覚えて無いけど、衝撃を受けて笑う事が出来なくて、おー、と唸らされたのを覚えてえる。

新しい笑いだった。もうダメだ、勝てないと思った。心の何処かにあった芸人になれたらなぁなんて大学生の甘えが一瞬で吹き消された。

でも、ラーメンズはなかなかテレビに出なかった。オンバトだけがラーメンズを観られる唯一の場所だった。ライブに来てくれたお客さんにこそネタを見てもらいたいと雑誌のインタビューで読んで、オンバトは空気感がライブに近いから出てると言っていた。確か、Quick Japanクイックジャパン)で読んだと思う。あの雑誌は必読だった。

大学生だったので渋谷の奥のシアターDに行っている友人もいた。

お前もどうだと誘われたけど、自分は諦めたからそこまで出来なかった。追いかけるファンの一人になるのが悔しくて恥ずかしくて、とてもじゃ無いけど当時の自分は行けなかった。

行って目の当たりにしとけば良かったと、大人になってから更に悔やんでもいる。

 

オリンピックの総合演出を手掛ける、正直、嬉しくて心が踊って、やっぱりそうなるよな、と勝手に頷く自分がいた。コメディアンが認められて嬉しかった。

 

あのコントは「過ち」なのだろうか。

ホロコーストに対する認識は多くの人に正しく理解してもらわなければならないが、コメディアンがコメディ作品の中で使ってはいけない言葉なのだろうか。謝るしか出来ない状況にされた小林賢太郎さんが公の場で活動出来なくなるなんて事はないように守らなくてはならない。

コントの中に悪の言葉を入れて、さらにそれを正す言葉を入れるのも啓蒙と呼べる筈だ。

そもそも、喜劇は演劇の一部で、悲劇やサスペンスやホラーやSFなどある中の一ジャンルだ。演劇は芸術として認められ人々から愛されている。その喜劇と言う芸術の中に残忍なキャラクターとして登場した人物が「ユダヤ人大量虐殺ごっこ」という台詞を言い、それを正す流れがあった。これを揶揄って言葉で片付けて批判するのは悲し過ぎる。コメディアンはもっと胸を張って正当性を主張しても良いと思う。言葉が狩られて行く怖さも感じる。

他のジャンルの演劇(悲劇やサスペンス)で悪役の「ユダヤ人大量虐殺ごっこだ!」と言う台詞に対して、主役が「そんな事させるか!」と言っても問題にならない。

コメディが軽んじられてると言う現実が突きつけられた。悔しいよ小林さん。

ラーメンズ解散後、世界的な大活躍の場だったのに、俺は悔しくて堪らない。お笑い見続けたご褒美ってあるんだなと笑いの神様にお礼を言いたいぐらいだったのに。笑いが世界に認められたと思ったのに、この仕打ちは一体なんだ。

ラーメンズは、小林賢太郎さんは、全コメディアンは、クソ恥ずかしいけど、今でも俺の夢なんだ。

 

Corneliusといじめとあの頃の状況

高校の昼休み、誰かが放送室からCorneliusのWHAT YOU WANTを流して、それにクラスの何人かが気付いた。

Corneliusこと小山田圭吾さんはフリッパーズギターを解散して、1〜2年経ってから活動を再開したと記憶している。その間、「猿の惑星を観ていた」とサラッと雑誌のインタビューで言っていた。

「誰がCornelius掛けたんだろう。見に行こう。」

と言って放送室に行ったけど、誰もいなかった。

復帰して直ぐのアルバムはフリッパーズに近いけど、尖っててカッコ良かった。またアルバム出したら買うんだろうなと思った。

小山田君は当時の中高生からは、破天荒で生意気だけど勉強が出来るヤツ、みたいな感じで認められてる存在だった。

ファッションも僕らを引きつけた。小山田君のエイプの指輪も探しに原宿に行くと言うオシャレに目覚めた同級生がいた。

テレビでチラッと見た時も態度があまり良くなかったのを何故か鮮明に覚えている。あのふてぶてしくて媚びない態度に憧れを抱いていた。

そもそも、テレビや雑誌に小山田君はあまり出てなくて、出たら情報をキャッチしたいわゆるサブカル好きの友人達が教えあっていた。表に出ているのを見つけたら嬉しくなった。今は小山田さんの記事が全部いじめ関連で、見つけると反射的に反応してしまうが、何だか辛いし悲しい。

自分が良いと思ったアーティストが世界でも活躍して、色々な所でCorneliusの名を見る様になるのはなんだか勝手に誇らしかった。

当時は、芸能人が破天荒なエピソードを話すと喜ばれて雑誌は売れたしテレビも盛り上がっていた。万引きや喧嘩自慢、器物破損、盛り上げるために芸能人が法に触れる話をしていた。皆んなだんだん麻痺してそれらの話をアリと捉えてテレビで放送してしまっていたり、雑誌に載ったりしていた。今は行儀が良く、聖者の様な人が求められるが、当時は破天荒にベクトルが向いていた。今にして思えば間違った価値観だった。当時サブカル好きの若者だった自分達はその間違った価値観の一端を担ってしまったと思う。過激になるテレビを観て、雑誌を読んで、自分はやってないから悪くないと言う顔で傍観し神輿を担いでいた。申し訳ない気持ちで一杯になる。

正直、小山田圭吾さんのいじめの話はフリッパーズの頃から聴いてた人は皆んな知ってると思う。クイックジャパンで後日談までやっていた。当時から批判を受けていたけれど、謝罪もせず静観している姿も良しとさえしていた。

自分を悪く見せたい時期は誰にでもあると思う。そんな時期に作られた記事だから真に受ける事もなく、少し痛々しいなぐらいの感覚で冷笑して流していた。白日の下に晒されて批判が集中することを深く考えずにいた。

こんな風になってしまったのは当時の間違った価値観の時代と、ファンとして憧れて囃し立て、彼の記事は取り敢えず読んでいた自分達のせいなのかも知れないと思う。過激な事を言わせてしまった。作り出す音楽の凄さで全肯定してしまっていた。

ファンの僕らこそが未熟だった。

 

いじめの怖さは、怨みだ。多分一生許されないという事だ。被害者は死ぬまで忘れないし、親や兄弟姉妹まで苦しめてしまい被害者になるのでどこまでも続く。そして、辛い記憶や悪い記憶ほど残る。

あの頃はここまで表立って小山田君が活躍するとは思ってなかったし、ここまで聖者の時代になるとも思っていなかった。

特に知的障害者のご家族にこの事件は辛過ぎる。自分が小学生の時、知的障害のある子が怪我をして、お母さんが学校に来た事があった。

その時にお母さんの口から出た言葉が忘れられない。

「誰かにやられたんですか?」

と先生に尋ねているのを、目の前で聞いてしまった。今でもトラウマになっている。その子は自分で頭をぶつけてしまい流血して包帯を巻いていた。流石にあの悲しそうなお母さんの問いかけは辛かった。障害のある子供を持つ親御さんの気持ちを痛感した。

色々な力が働き、小山田さんは姿を消すかも知れない。もう表には立てないかも知れない。

ただ、小山田さんは過去は背負わないといけないし、全てをひっくるめて小山田さんだ。今回、彼は謝罪の言葉を初めて口にした。長年見ていたけれど、今回の謝罪は驚いた。もう君づけじゃない。人は成長し刻々と変わる。良くも悪くも色々な経験によって日々生まれ変わる。それを認めなければ世界は終わりだ。謝罪し伝えていく小山田さんがいるなら今後も応援したい。

自分が出来ることは、この話を子供達に伝えて考えて貰うことだと思う。自分達の世代の間違いや経験を見てもらい、同じ過ちを犯さないように伝えなければと思う。

いじめられたら大人に声をかけて助けを呼べ。逃げていい。いじめる側に飲み込まれそうな時も大人に声をかけてくれ。状況を変えるんだ。切り開く勇気を出せ。それも状況を変えた事になる。

いじめてしまったら、それは犯罪だ。いじめをした人は傷害罪などの罪に問われ刑務所に行き償う。心や身体に危害を負わせたら慰謝料を支払う。時には一生養う分のお金を親が家を売って作るし、それでも足りないこともある。何よりいじめた人は犯罪者として一生生きなければならない。これは消えない。

子供達に同じ過ちを経験させないように、傍観者ではなく本当に向き合わなければいけない。

 

いじめから派生する様々な問題

今、いじめ事件の加害者を特定し、ネットで実名を公開する、いわゆる「特定班」と言う人々の動きが問題になっている。

中でも最近、裁判になった事例はいつでも誰にでも起こりうると思う。

要約すると、特定班が加害者を間違えて特定してしまい、独り歩きし、親、兄弟、自宅、親の勤務先などあらゆる個人情報が公開されてしまったと言う事例だ。顔写真や家や勤め先の画像など、もはや個人情報とは言えない範囲に及ぶ。しかも、その公開された方は被害者とは面識も無かった。

変に加担はしたくないので具体的な名前等は伏せるが、恐ろしい事態になったので、子供を持つ親として「どう子供を守るか。」悩んでいる。いじめられる可能性、いじめる可能性、犯人にされる可能性、いじめは多くの闇を生み出してしまう。

裁判の勝ち負けではどうにもならないレベルだ。

特定班の人々は、基本的に自分の正義があり、悪い事をしてやろうと言う気持ちは更々無い。いじめを憎み犯人が許せない→報復だ!となっている。犯人を例え間違えていても、その「報復だ!」のエネルギーで行動に歯止めが効かず、過去の冤罪事件のようになっている。エネルギーをぶつける対象を定め、これでもかと言う程攻撃してしまう。

あと、また別の問題として、ブログで晒し行為を行なっている特定班の中には訪問者数を稼ぎたいと言うか、凄く稼げるからやってしまっている人がいると思う。何かの事件について調べると「実名」や「顔写真」が検索でヒットしてついついクリックしてしまう。これは知的好奇心がそうさせるので仕方がなく、その「実名」や「顔写真」が真実かどうかは関係無い。釣りだったりする事もあるだろうけれど、訪問者数はお金に繋がるのでなかなか減らない。

いじめにより死んでしまった子供達のことをお金につながるというのは卑しいと思うし、自分にはやりきれない。ただ、家族がいて失業した経験が自分にはあるので、そうでもしないと生きていけない不幸な人がいるというのも痛いほど分かる。

いじめられ死を選ぶ子の痛みを分かち合い理解し再発を食い止めることを一番に考えないといけない。なのに、加害者と間違われることに恐怖している。他にも問題がこんなに多く派生すると、何に悩んでいるか分からなくなる。

問題の根本を見失わないようにしないといけない。